ビートルズ第二のマネージャー、アレン・クラインは何をした?

今も世界中にファンがいる偉大なロックバンド、ザ・ビートルズ。

彼らは、その成功を支えた初期の敏腕マネージャーブライアン・エプスタインの突然の死からわずか4年足らずで解散してしまいました。

今ではその原因の一つとして、

アレン・クラインという人物が大きく関わっていた、

とされています。

この人物が一体何をしたのか。それが本稿のテーマですが、結論

「ビートルズからお金を搾取しまくった男」

と言えるでしょう。

分かっていることの少ない人ですが、事実をまとめていきます。

「アレン・クライン」とは?

名前:Allen Klein

生誕:1931年12月18日

死没:2009年7月4日

ニュージャージー州出身。ユダヤ系移民の家庭に生まれます。1歳になる前に、母親と死別(このあたりにジョンはシンパシーを感じたのかもしれません)。10代の頃は夜間学校に通うなどしていたので、なかなかの苦労人です。暗算に優れ、大学を卒業後、簿記とレコード会社の監査を担当します。1957年、妻のベティとともに起業。

1965年、ローリングストーンズのマネージャーを務めますが、金銭感覚の鋭いミック・ジャガーに嫌われ解雇されます。

数多くのアーティストを担当

ビートルズ、ローリング・ストーンズ以外にもCCRなどのマネジメントを担当しました。

ビートルズのマネージャーになった経緯

1967年にブライアン・エプスタインが変死したのち、ビートルズは急に取り纏め役を失ってしまいます。当初はメンバーの一人であるポールがリーダー役を買って出ますが、まだ血気盛んな20代中盤男性だった他のメンバーたちにはそれが面白くありませんでした。

また、メンバーで立ち上げたビートルズの会社「アップル・コア」(巨額の税金を逃れ、財産を投資するための会社)の運営も暗礁に乗り上げており、彼らが音楽に再び集中するためにも誰か経営のプロを、アップルに連れてくる必要がありました。

ポールが指名したのは、自身の奥さんリンダ・マッカートニーの父である、リー・イーストマン。彼をアップル社の監査役に抜擢します。

それではますますポールの権力が大きくなってしまう。そう考えたポール以外の三人が呼んできたのが、このアレン・クラインでした。

この時ポールは、ミック・ジャガーから忠告を受け一人だけ契約書にサインしませんでした。

たしかにアップルは立て直したけど。。

アレン・クラインはその強引なやり方でアップルの立て直しに成功しますが、収益の一部をこっそり自分の懐に入れていきます。

また、1969年1月の「ゲット・バック・セッション」。ここで録られた音源の処理にバンドは困っていました。録ったはいいけど、明らかにクオリティーが低いのです。「このまま出すわけにはいかない」と判断したポール以外の三人はアラン・クレインとともに、フィル・スペクターにプロデュースを依頼。翌70年にアルバム「Let It Be」としてリリースされることになりますが、ポールにとっては寝耳に水状態でした。しかも、やっと重い腰をあげて制作した自身のソロアルバム「MacCartney」の発売を延期されてしまうのです。

激怒したポールはタブロイド紙に「もうビートルズで活動することはない」と発言。アラン・クレインから縁を切るために他の三人とアップルを相手取り訴訟を起こします。

ポールはこれに勝利しますが、当然ながらバンドは解散(アップル・コア社はクレインに420万ドルを支払います)。

さらにその後もアラン・クレインはビートルズのメンバーを訴え続け、金を請求します(ミックは全く同じことをアラン・クレインにされていました)。

晩年

悪名高くなってしまった彼にはその後マネージャーとしての仕事はなく、2009年7月4日、ニューヨークでアルツハイマー病で亡くなりました。

マネージャーとしての腕は確かだったが、

崩壊寸前の「アップル・コア」を立て直したり、頓挫しかけていた「ゲット・バック・セッション」を奇才フィル・スペクターに依頼することでよみがえらせたり、かなり有能なマネージャーであったことは間違いありません(ストーンズも成功させています)。

しかしその狡猾さが仇となってしまった、のかもしれませんね。

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